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研究大会

過去に開催された研究大会のプログラムは以下のとおりです。

■2025年度研究大会

日時:2025年7月19日(土)

会場:京都工芸繊維大学

10:30-10:35

開会挨拶

⼀般発表(午前の部)

第⼀会場(60 周年記念館 1F 記念ホール)

司会 藤⽥尚志

  • 10:35-11:15 上野隆弘「バシュラールの「孤独」——詩学の隠れた主題」

  • 11:15-11:55 毎床玲⾳「ジャン・グルニエにおける「信念」と「正統性」の問題」

第⼆会場(東 3 号館 K101) 司会 平芳幸浩

  • 10:35-11:15 奧野晶⼦「具体詩——新国誠一のコンクリート・ポエトリー——」

  • 11:15-11:55 細井綾⼥「犯罪報道に「真実」はあるのか」

昼休憩

11:55-12:35

総会(60 周年記念館 1F 記念ホール)

12:35-12:55

⼀般発表(午後の部)

第⼀会場(60 周年記念館 1F 記念ホール)

司会 青山太郎

  • 13:00-13:40 中良太「趣味のアイデンティティ喪失の突破⼝——ヒュームとブルデューの趣味論の再考——」

  • 13:40-14:20 ⼩泉空「感覚/⽅向のデザインとしての芸術/技術——ポール・ヴィリリオのセンスの哲学」

第⼆会場(東 3 号館 K101) 司会 檜垣立哉

  • 13:00-13:40 ⽶⽥翼「批評としてのハイキング——⾃然、⾝体、技術の関係を問い直すための技芸」

シンポジウム「はじまりの森崎和江——〈⾃⼰〉と〈他者〉のさらにその先へ」

14:30-17:00

報告 (1) 【炭鉱・聞き書き】川松あかり

報告 (2) 【詩・⽂学】平芳幸浩

報告 (3) 【愛・性・家族】藤⽥尚志

応答・総括 ⼤畑凛

(司会:藤⽥尚志)

■一般発表

上野隆弘「バシュラールの「孤独」——詩学の隠れた主題」

ガストン・バシュラールは、 多くの詩を分析することで想像⼒について新たな理解をもたらした哲学者である。 「物質的想像⼒」という概念に代表されるその詩学は、のちの新批評に影響を与えたことが知られている。こうした⼀般的な理解に対してバシュラールの詩学に「孤独」というテーマが通底していることは⼗分に知られていない。この主題はたしかにバシュラールにおいて明⽰的な仕⽅で展開されていないものの、その想像⼒論の背後で密かに主張され続けている。本発表では、「孤独」の主題を分析することでこの哲学者に伏在する実存の問題を浮き彫りにする。議論は以下のように進む。

はじめに、このテーマについて扱った数少ない先⾏研究の⼀つとして Jean Libis(2007)を取

り上げ、検討する。Libis によればバシュラールの孤独論はショーペンハウアーの影響を受けて成⽴している。その指摘をもとにバシュラールの思想が当時のフランスにおけるショーペンハウアー受容をもとに展開されていることを明らかにする。

次に「社会」との関連においてバシュラールの孤独論の特徴を⽰す。 「孤独」は「社会」との関係で対⽐的に扱われるが、バシュラールにおいて両者はどのような関係にあったのだろうか。詩という芸術を通じて「孤独」を論じるバシュラールには、⽂学を「⾃由」や「アンガジュマン」と結びつける同時代のサルトルとは異なった関⼼が⾒出せる。本発表では、 これをバシュラールにおける実存の問題として提起する。

バシュラールの実存哲学は、 結局のところどういった結論に⾏き着くのか。最後にこの主題の到達点について考察する。 「孤独」を軸に展開されるバシュラールの議論は、 最終的にある種のモラル論と結びついている。 ニーチェなどと共に語られるそれは道徳⼼理学に接近し、想像⼒とモラルを重ね合わせるものである。こうした議論の妥当性について検討し、バシュラール哲学の隠れた狙いについて明らかにする。

毎床玲⾳「ジャン・グルニエにおける「信念」と「正統性」の問題」

フランスの哲学者ジャン・グルニエ Jean GRENIER, 1898-1971 は、その語り⼝や内容、 経歴等から、アルベール・カミュの先⽣・友⼈で、哲学的な体系のないエッセイストと⾒做されることがほとんどである。

しかしグルニエは、とりわけ前期の著作を通して、〈わたし〉と「絶対」をめぐる独⾃の存

在論を展開していた。

本発表は、その事実を踏まえ、国内の学術研究では着⽬されてこなかった論考「同⼀性の確

信と諸信念の問題」La certitude de l'unité et le problème des croyances(1936)におけるグルニエの問題意識が 「正統性」への批判から来るものであり、のちの 『正統性の精神』 (1938) や『選択』(1941)等へと連続していることを明らかにしようと試みるものである。

研究の第⼀⼈者である Toby GARFITT の論考に拠れば、グルニエは、⼈間存在の不確実性

2からすべての価値の根源となる「絶対」の優位性の確信へと素早く移⾏した結果、 ひとが暮らしていくうえで必要な相対的な価値や原理を正当に導きだせなくなってしまうアポリアに陥った(GARFITT 2014:218)。GARFITT は、そのアポリア、あるいはグルニエの著作全体の背景に古代ギリシアのヒューマニズムを⾒、そこからグルニエにおける「具体的に⾝体化された哲学」を論じた。 それはまさに、グルニエの哲学が、 境遇や⼼の揺れ動きを含めた彼⾃⾝の「⾝体」とは切り離せないものであることを⽰している。

しかしながら、〈あれにもこれにも、 どちらにも最終的には与することができない〉という 「寄る辺なさ(緊張関係)」から⽣じる曖昧な態度は、グルニエの哲学が問題点を含み批判され得ることをも⽰している。

以上の問題意識に⽴つ本発表は、つまりグルニエの哲学が持つ意義と課題を部分的に提⽰

するものでもある。

奧野晶⼦「具体詩——新国誠一のコンクリート・ポエトリー——」

コンクリート・ポエトリーとは、具体詩、 形象詩とも呼ばれ、「知覚する対象としての⾔葉の物質性を表現要素に⽤いて創作された実験的な詩形態(⼿法)」をさす。1950 年代にドイツとブラジルで提唱され、世界各地で創作が⾏われた。1950 年代から世界的に広がったコンクリート・ポエトリー運動が⽇本で隆盛を極めたのは 1960 年代で、その運動を牽引したのが、新国誠⼀ (1925〜1977)である。

⽇本の近代詩、現代詩の歴史は欧⽶の詩や芸術の受容からはじまっているといえる。1882

年の 『新体詩抄』 をはじめとし、⽇本語によるソネット等の定形押韻詩を試みたマチネ・ポエティック運動他、 ⻄欧の詩歌を取り⼊れる取り組みがなされてきた。 新国は、それらの状況を「根なし草の悲劇」 だとし、「⽇本の⾵⼟にその⽇本語の核を根ざしている」詩を作ろうとした。

コンクリート・ポエトリーの特徴は、 ⾔葉を伝えるための⼿段としてしか意識されていなかった、 素材そのもの(活字やテープ等)を表現要素として⽤いた点にある。素材により、 視覚詩と⾳声詩に⼤別される。 視覚詩は⽂字や写真等を素材とした視覚に訴える詩であり、⾳声詩は⾳を素材とした聴覚に訴える詩である。新国はその両⽅を制作した。

⽇本のコンクリート・ポエトリーが英語圏のものと異なるのは、その⾔語による。 ⽇本語には、 漢字、 ひらがな、 カタカナという⽂字の多様性がある。同じ⾔葉であっても選ばれた⽂字によりそのイメージは異なる。 漢字は表意⽂字であり、⼀⽂字ですでに像を成し、 意味を成す。また、 漢字には⾳読みと訓読みがある。 漢字は⾳も持っている。 視覚と聴覚のどちらにも訴える詩を作ることが可能である。本発表では、新国がこの漢字というシステムを最⼤限に利⽤し、⽇本語の核に根ざした「具体詩」を作成した過程を明らかにする。

 

細井綾⼥「犯罪報道に「真実」はあるのか」

拙稿 「恋愛からレイプまで」 で性加害における合意概念の定義の難しさについて論じたが、近年報道が過熱化しているこのような事件に限らず、世間を賑わせる犯罪報道では本来当事者にしか知り得ないはずの真偽のほどが定かでない憶測による情報が⾶び交う。ここではそのはしりとも⾔える⾼橋お伝の事件を取り上げたい。 阿部定事件発⽣当時、 定は「⾼橋お伝の再来」と呼ばれた。だが映画 『愛のコリーダ』 の影響もあり、その名が⽇本国外でも認知されている阿部定に⽐べ、お伝の認知度は極めて低い。このごくありふれたお伝事件がなぜ当時世間に⼤きなインパクトを与え、後世にわたって多くの作品にインスピレーションを与えることになったのか。明治初期に起こったこの犯罪事件についてはすでに「毒婦イメージの形成」及び 「開化セクソロジー」を切り⼝に論じてきたが、 今回はお伝およびその関係者への取り調べ記録と、 判決⾔い渡し直後に発表された仮名垣魯⽂作『⾼橋阿伝夜刃譚』、 岡本起泉作『其名も⾼橋 毒婦の⼩伝 東京奇聞』、河⽵黙阿弥作『綴合於伝仮名書』(いずれも 1879年発表)をもとに、 当時この事件がどのように解釈され、報道されたかを読み解いていく。 裁判調書から⾒えてくる⼤きなポイントとして、お伝と被害者男性の関係、 事件の引き⾦となった彼らの待ち合わせの理由、 男性の死は⾃殺か他殺か、他殺である場合、それはお伝の正当防衛だったのか、 意図的な殺害だったのかという三点が挙げられる。 被疑者⾃⾝に多くの偽証があったことは否めず、 混乱を極めた取り調べが三年近くに及んだこの事件の真相はまさに「藪の中」のままであった。 お伝の刑死直後発表され⼤⼈気を博した魯⽂らの作品は「事実をありのままに」 書くことを謳っているにもかかわらず、 稀代の毒婦 ・お伝像を作り上げる多くの粉飾に溢れていた。 そして当時の⼈々を惹きつけたのはまさにその作り事の部分であった。ここでは「羅⽣⾨エフェクト」と呼ばれる映画理論をもとに、「藪の中」 での出来事を報道するなかに果たして「真実」はありうるのかという疑問を呈し論じたい。

中良太「趣味のアイデンティティ喪失の突破⼝——ヒュームとブルデューの趣味論の再考——」

本発表では、現代において趣味のアイデンティティの基盤が揺らいでいることに対し、そ

の打開策がヒュームとブルデューの趣味論を捉え直して得られる⽰唆に求められることを⽰

す。 ブルデューが指摘したように、 ⼈が趣味を形成するとき、⾃⾝の所属する共同体の価値観を内⾯化する。この点で、趣味の形成はアイデンティティの形成としても機能している。

しかし現代では、テクノロジーの進歩により時間的・空間的に⾃⾝の共同体から遠く離れ

た作品にも触れられるようになった。 さらに、 現代の芸術においても、 旧来の様式に即した美術作品だけでなく、既存の様式にとらわれないアート作品も増え、個⼈が⾃由に感じ取る鑑賞のあり⽅が増えた。こうして現代では、⽬の前に供給されるあらゆる共同体の作品の海をさまよいながら、個⼈が⾃⾝の感じるところを頼りに価値観を形作らなければならず、趣味の形成、そして拠り所となる価値基準が不安定になるという問題が⽣じる。

この問題の打開策として、まずヒュームの趣味論に⽴ち返る。ヒュームの趣味論における

作品の受容プロセスを捉えなおし、 個⼈が⾃由に感じ取る鑑賞から⼀歩深めた鑑賞としての、異なる⽴場に⾝を置くという鑑賞のあり⽅を⽰す。そして、ブルデューの趣味論におけるハビトゥスにも注⽬し、さらに⼀歩深めた鑑賞のあり⽅を⽰す。ハビトゥスとは⾝体的感覚を通じて共同体の価値基準を⾃然に内⾯化するプロセスである。テクノロジーは鑑賞者に遠くの共同体の作品をも提⽰するが、そのテクノロジーがつなぐ受容感覚は部分的なものであり、実際に⾝体的感覚を通じてその作品を受容することとは経験の質が異なる。実際に経験するというハビトゥス的な鑑賞では、⾃⾝の価値基準に対してより深い影響が期待できることを⽰す。これら⼆者の趣味論から得られる鑑賞のあり⽅が、現代における趣味形成と判断基盤の不安定化の突破⼝となる可能性を⽰す。

 

⼩泉空「感覚/⽅向のデザインとしての芸術/技術——ポール・ヴィリリオのセンスの哲学」

本発表は、 フランスの思想家、ポール・ヴィリリオ(1932-2018)の芸術論と技術論を、 sens(感覚/⽅向)のデザインという観点から総合的に読み解こうとするものである。芸術と技術は今⽇、⼀般的には、あくまで別々の領域のものとして扱われているが、他⽅で

多くの論者が指摘するように、⼆つは、かつて同じ art として括られる、 不可分の営みであった。 例えばレオナルド・ ダ ・ヴィンチのようなルネサンス期の芸術家を⾒ればわかるように、多くの芸術家は同時に、エンジニアのような存在でもあった。 また今⽇でも、とりわけ建築のような領域では、芸術と技術は依然として、曖昧に混じり合っているともいえる。

そして本発表が取りあげるポール・ヴィリリオも、 こうした芸術と技術の曖昧な境⽬に⽬を向けた⼈物であったといえる。 例えばヴィリリオは、 世界的な技術哲学者の⼀⼈として名を連ねる⼀⽅で、Esthétique de la disparition(1980)、『戦争と映画』(1984)といった映画に関する論考を残したことで、芸術の領域からも注⽬された⼈物であった。 またかれは思想家として名が売れる以前、元々ステンドグラス職⼈・建築家として働いていた⼈物であった。

実際、ヴィリリオのテキストを読んだことがあるものであれば、そこで芸術と技術が横断的

に論じられていることに気づくはずである。 しかしヴィリリオのこの横断性は、技術が芸術に優位に⽴つ (ある時代の技術こそが、その時代の芸術の形を決定する)という観点に⽴つゆえに、 可能になっているととらえられてきた。 そこで本発表は、ヴィリリオの芸術論と技術論を繋ぐ、sens という概念に着⽬することで、別の形で、ヴィリリオの芸術‐技術論を提⽰しようと試みる。

⽶⽥翼「批評としてのハイキング——⾃然、⾝体、技術の関係を問い直すための技芸」

⼀般に、ハイキングという営みは、休⽇の余暇活動の⼀種と捉えられがちである。だが、その起源からして、ハイキングとはそれ⾃体きわめて批評的な実践であった。本論では、 思想史的検証とフィールドワークという双⽅向的アプローチによって、 ⼈間存在を美学的・社会的・哲学的な観点から批評する実践として、ハイキングという営みを捉え直すことを試みる。

第⼀節では、18 世紀後半に英国の湖⽔地⽅ではじまったピクチャレスク運動に焦点を絞り、そこでハイキングがどのような批評的役割を担ったのかについて検討する。当時の英国は、 産業⾰命に伴い、都市化や⼯業化が急速に進⾏した時代であり、 これに抗うように、 ⾵景や⾃然に美を⾒出すピクチャレスク運動が⽣じたことは周知のとおりである。本論では、ワーズワースが「歩くこと」を「⾃然との対話⼿段」と位置づけたことに着⽬し、その狙いを⾒定めることで、ハイキングの本義を明確にしたい。

第⼆節では、20 世紀から現代までの⽶国の⾃然保護活動の舞台である三つの⻑距離⾃然歩道——AT(3,351km)、CDT(4,270km)、PCT(3,280km)——をスルーハイクするために⽣まれたウルトラライト・ハイキング(UL)の⽣成の現場を追跡し、現代ハイキングの思想・実践の実像を明らかにする。 とりわけ、その⽅法論を確⽴したレイ・ジャーディンの思想・実践の分析を通じて、UL を「⾃然、⾝体、技術の関係の問い直し」として定式化することを⽬指す。

最後に第三節では、AT をモデルに、⾃然保護の防波堤を担うものとして⾼度経済成⻑期に考案・設⽴された、⽇本で最初の⻑距離⾃然歩道たる東海⾃然歩道(1,697km)での私⾃⾝のフィールドワーク報告を通じて、先述した UL 思想・実践による「問い直し」の具体相を記述していきたい。⼀連の考察を通して、ハイキングがいかなる意味で批評的なのか、それは⼈間存在のあり⽅を考えるうえでいかなる効⼒をもつのか、といった問いに応えることが本稿の主眼である。

■シンポジウム「はじまりの森崎和江——〈⾃⼰〉と〈他者〉のさらにその先へ」

要旨

「社会芸術学会の活動は、社会と芸術との間のダイナミズムに向かって展開される」(設⽴

趣旨)。 だとすれば、 森崎和江(1927-2022)の⼀連の仕事ほどこの学会のシンポジウムにふさわしいテーマはない。森崎は、17 歳まで⾃らを育ててくれた植⺠地下の朝鮮の⼈と⼤地に深い愛着と、それゆえに深まる贖罪意識を胸に、帰国後の⽇本社会との隙間を感じ続け、「私には顔がない」という思いを詩と思索で表現し続けた⽂学者・ 思想家である。 地⽅の下層労働者の声なき声を集約することで抵抗と連帯を模索した雑誌『サークル村』 (1958-1960)の中枢にいながら、 そこになおも残存する⽗権主義・男性中⼼主義を批判し、 ⼥性の交流誌 『無名通信』 (1959-1961)を創刊し、何重にも疎外された⼥性たちの声に⽿を傾ける『まっくら――⼥坑夫からの聞き書き』 (1961)や『からゆきさん』 (1976)を刊⾏した森崎。本シンポジウムは、専⾨家ではない三⼈の研究者がそれぞれの視点から森崎の仕事を読み解くことを試みる「はじめての森崎和江」 であると同時に、 常に「原因の⼀端は、 ⽇本社会の⽭盾のみならず、⾃分にもあったのではないか」と、 ⽬の前に広がる諸問題の中に〈⾃⼰〉 を⾒出すことで、 安易な 〈他者〉論に陥ることなく、「ウーマンリブ/フェミニズム」 や 「ポストコロニアル批評」が名前を与えられるはるか以前に、 新たな批評空間を切り開いていった森崎に注⽬する「はじまりの森崎和江」でもある。

 

■2024年度研究大会

日時:2024年7月20日(土)

会場:専修大学 神田キャンパス

12:30-12:50

開会挨拶・総会

12:50-14:50

一般発表

瀧口隆「ジル・ドゥルーズ『シネマ』における自由間接話法の射程」

(司会:⻘山太郎)

上野隆弘「オブジェ学とは何か——ダゴニェにおける芸術と工業」

(司会:池田忍)

細井綾女「『たった一つの、私のものではない言葉』:在日朝鮮文学の定義を問う」

(司会:小川歩人)

15:00-17:30

シンポジウム「言語と社会」

報告 (1) 平田公威「音から歌声へ、文から文体へ——ドゥルーズ゠ガタリのマイナー言語論を手がかりにした考察」

報告 (2) 酒井麻依子「経験を言葉にもたらすこと—— 言語の権力」

報告 (3) 深澤明利「私を作る記憶、記憶を作る私—— ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』を読む」

(司会:檜垣立哉)

■一般発表

瀧⼝隆「ジル・ドゥルーズ『シネマ』における⾃由間接話法の射程」

本発表は、ジル・ドゥルーズ(1925−1995)の著作『シネマ1 *運動イメージ』
(1983)、『シネマ2 *時間イメージ』(1985)における「⾃由間接話法 indirect libre
discours」ないし「⾃由間接的な indirecte libre」という語の使⽤に着⽬し、それらをめぐる議論を『シネマ』で問われる問題系のなかに位置づけることを試みるものである。『シネマ』においてドゥルーズは⾔語学的な狭義の意味を超えてこの語を⽤いる。そして「⾃由間接話法」をめぐる議論の基底にあるのは、ドゥルーズの記憶と⺠衆について論じる政治映画論である。
この政治映画論では、いかにして同⼀的かつ⽀配的な語り⼿によるプロパガンダに抗して
「集団的⾔表」を⽴ち上げるのかが問われる。同⼀的かつ⽀配的な主体への批判は、『シネ
マ1』においても「⾃由間接話法」をめぐる記述に⾒られる。ドゥルーズは、同⼀中⼼的な
主体と「主観−客観」の関係を前提とする「⾃然的知覚」を批判し、ベルクソンに依拠した
知覚の発⽣の議論を展開する。そのなかで「主観−客観」の関係を⾔語との類⽐において問
い直す⽂脈で、⾔語学者バフチンと映画作家パゾリーニに由来する「⾃由間接話法」が紹介
される。この語は、「⾏為する者を⾒る者」といった⼆重の主体化が折り込まれる映画的な
イメージの在り⽅を⽰す。
「時間イメージ」を主題とする『シネマ2』において「⾃由間接話法」は、映画における
物語の語り⼿と⾔表の形成の議論に援⽤される。すなわちそこでは、映画はいかに記憶を仮
構するのかが問われるのであり、「⾃由間接話法」における⼆重の主体化に焦点が当たる。
したがって「⾃由間接話法」に関するドゥルーズの記述を追うことで、知覚の裏側で通底す
る記憶の問題、ドゥルーズが映画を通して議論する集合的記憶の問題が浮かび上がることに
なるだろう。本発表はこの問題関⼼のもとで、『シネマ1』から『シネマ2』にかけて「⾃
由間接話法」の議論を整理しその理路を明らかにする。

上野隆弘「オブジェ学とは何か——ダゴニェにおける芸術と⼯業」
フランス科学認識論の系譜に連なるフランソワ・ダゴニェ(1924-2015)は、この分野の代
表者であるガストン・バシュラール(1884-1962)と同じく芸術にも多⼤な関⼼を寄せたことで知られている。バシュラールが主に詩に関する著作を残したのに対してダゴニェの関⼼は造形芸術に向けられ、特に現代アートを主題として哲学的考察をおこなっている。
本発表では、ダゴニェの著作のうち『今⽇の芸術のために––芸術のオブジェからオブジェの芸術へ』(1992)および『神々は台所にいる––オブジェの哲学と哲学のオブジェ』
(1996)という⼆冊を中⼼に取り上げることでダゴニェの芸術論を明らかにしたい。
ダゴニェは、これらの著作で芸術と⼯業の関係を主題としている。思想史的には対⽴したも
のとして扱われてきた芸術と⼯業は、ダゴニェにおいて近づけられ、同列に扱われる。その
際、鍵概念として⽤いられるのが「オブジェ学(objectologie)」である。
オブジェ学は、精神性に対して物質性を再評価しようとするダゴニェの「物質学(matériologie)」から導き出されるものであり、⼈⼯物を再考するために⽤いられる概念である。ダゴニェは、『オブジェ礼賛』(1989)によってはじめて提起されたこの概念を⽤いることで、⼿⼯芸品を評価するという古典的な判断に対して⼤量⽣産された⼯業製品を積極的に評価しようとする。その背景には、⼯業製品をイデアの模倣として貶めるプラトンへの批判がある。
先⾏研究では、⽇本にダゴニェを紹介した⾦森修がこのオブジェ学について簡潔に⾔及し
ている(⾦森、2008)。しかし、その内実、特にオブジェ学がもたらす社会的含意までは考察されていない。本発表では、ダゴニェの思想史的意図を押さえつつも、そこから導き出される社会観とその現代的意義を明らかにする。

細井綾⼥「『たった⼀つの、私のものではない⾔葉』:在⽇朝鮮⽂学の定義を問う」
在⽇朝鮮⼈コミュニティには⽇本を出⾃としない彼らを差別・区別することなく⽇本社
会の正当な構成員として認めることを求める動きがある⼀⽅で、「在⽇」というラベリング
を外すことで彼らを彼らたらしめている歴史性が消し去られてしまうことを危惧する者もい
る。⽂学の分野では彼らによって書かれた作品は常に「在⽇朝鮮⼈⽂学」というラベリング
により、あたかもそれらが⾮-正統的な⽇本⽂学、あるいは⽇本⽂学の中の特殊分野であるかのように位置付けられてきた。この差異化はある時は出版社や書店、図書館を含む⽂学界において、またある時は作家⾃⾝によりなされてきた。そしてこの⽂学の定義は未だに曖昧なままである。このジャンルに字義通りの定義を与えれば「在⽇朝鮮⼈、すなわち⽇本に在する朝鮮半島出⾃の⼈々によって書かれた作品」ということになる。実際にはこのジャンルを⾔い表すのに「⽇本語⽂学」「⺠族⽂学」「僑胞⽂学」「ディアスポラ⽂学」「マイナー⽂学」「植⺠地⽂学」「ポストコロニアル⽂学」といった様々なタームが⽤いられ、それらのタームがカバーする領域は互いに重なり合ったり、排除しあったりしている。どの国で、どの分野でこの⽂学が論じられるかによっても⽤いられるタームは変わる。またこの⽂学の扱いがポストコロニアル・スタディーズのような研究分野におけるある種の流⾏に影響され、変化するという現象もある。この⽂学の定義を困難にしている原因の⼀つであり、同時にその核を成してもいるのが「ことば」、彼らの⽤いる「⽇本語」である。在⽇朝鮮⼈の表現⾔語としての⽇本語は、それが作家の⺟語であるか否かに関わらず⽇本⽂学の他の作家らの⽤いる⽇本語とは異なる歴史性を内包している。それはリービ秀雄や楊逸をはじめとする⽇本出⾃ではない作家たちの⽇本語とも異なる⽇本語である。ここでは⾃らの⽇本語との関係を「⾔葉の呪縛」(⾦⽯範)、「⾔葉の杖」(李良枝)と⾔い表す在⽇朝鮮⼈作家たちの特異な⾔語 経験を、ジャック・デリダが Le monolinguisme de l’autre(Derrida : 1996)において⽰したマグレブ系フランス⼈の⾔語経験との⽐較を通して論じ、そこから在⽇朝鮮⼈⽂学を定義することは可能なのかという問いに対する⼀つの答えを提案したいと思う。

■シンポジウム要旨

「美しい書物は、ある種の外国語で書かれている」。プルーストがサント=ブーヴに抗して述べたように、⾔語芸術はしばしば特異な⽂体を伴いますが、それはなにより⽣き⽅の問題にほかなりません。たとえば⽇本語やフランス語といった⾔語は、特定の社会で、標準語の資格で、規範として機能して、⼀定の規則に従って読み書き聞き話すことを要求します。⾔語の使⽤は、慣⽤や慣習とは切り離せず 、特定の社会での⽣を反映するのです。しかしながら、「⾔語」というものは、たとえ等質的にみえたとしても異質さを含んでおり、同⼀なものにとどまらず変化します。社会が内的に分化しているように、⾔語も職業や階級、⼈種、ジェンダーなどに応じて分化しており、「ひとつの」と数えられるメジャーな⾔語のうちで、マイナーな⾔語がざわめいています。そうした多⾔語的な状況下で、ひとはさまざまな⾔語と出会い、ときに、今までにない⾔葉を編み出すのです。それは、⽣き⽅の発明でもあるような「技法=芸術」であるでしょう。本シンポジウムでは、本学会の設⽴趣旨で掲げられる「多⾔語的」な志向に鑑みつつ、「⾔語と社会」のテーマのもと、⾔語の重層性や、⽣の最中で⽴ち上がる⾔語、他者の⾔語との出会いなどについて、⾔語理論、⽂学、哲学の観点から考えます。

- 平田公威「音から歌声へ、文から文体へ——ドゥルーズ゠ガタリのマイナー言語論を手がか りにした考察」
しばしば、⾔語とは意味を表すものであり、情報を伝達する道具だと考えられてきた。こ
の、アンドレ・マルティネの機能主義に代表される⾒⽅に対して、⾔語⾏為論や社会⾔語学
は⾔語活動を根本からみなおすものであった。フランスの哲学者、思想家のジル・ドゥルー
ズとフェリックス・ガタリは、この⼆つの流れを整理するなかで、興味深いことに、後者の
観点に⽴てば、⾔語は、⽂学や⾳楽としてみえてくると論じている。
本報告では、ドゥルーズ゠ガタリの『千のプラトー』を⼿引きに、⾔語なるものをあらた
めて検討し、その歌声や⽂体への⽣成変化について考察する。

- 酒井麻依子「経験を言葉にもたらすこと——言語の権力」

⾔語は、個⼈の経験を社会の中の他者たちに伝えるものであると同時に、私たちの経験を
分節化するものであり、個⼈の経験のされ⽅⾃体がその社会の⾔語に左右されてもいる。
だが、⼈々が⽤いる⾔語そのものは中⽴的ではない。⾔語は、どのような語り⽅をすべき
か、どのような経験が語られることができ、聞き取られるに値するかを⽀配することによっ
て、ある⼈々を「妥当な」語り⼿として中⼼に据えつつ、他の⼈々を周縁に置く。このこと
は、特定の⼈々の経験をとるに⾜らず、存在しないものとなすだろう。
本報告は、批判的現象学、フェミニズム認識論、ポストコロニアル理論などを参照しつ
つ、⾔語という権⼒と経験の記述との関係について論じる。

- 深澤明利「私を作る記憶、記憶を作る私——ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』を読む」

亡命作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)の自伝 Speak, Memory (初版 1951 年; 邦訳題『記憶よ、語れ』)は、ナボコフがアメリカへ亡命する以前の、ロシアおよびヨーロ ッパにおいて主としてロシア語を用いていた時期の出来事が英語によって書かれている。一般的に自伝においては視点となる人物を指示する人称代名詞——たとえば、「私」"I"——の 記号上の同一性が確固たる不変の自己を表出しているかに見えるが、実際には語の意味はそれが用いられる文脈において規定される。また、語られる過去の「私」を現在の「私」は、 読解可能である(と作者には思われる)形で書かざるをえないから、多かれ少なかれ読者を 意識する仕儀に至る。換言すれば、同時代の社会的コンテクストを参照しつつ自伝テクスト は書かれている。たとえば、『記憶よ、語れ』において、当時のアメリカの読者の偏見や先 入観に応答するように書かれている箇所は、そのわかりやすい事例であるだろう。本発表で は、本作において表象される「私」が同時代のアメリカにおいてどのような社会的な布置に おさまるのかを考察することを通じて、「生の最中で立ち上がる言語」の一端に迫ることを 目標としたい。

■2023年度研究大会

日時:2023年7月15日(土)

開催形式:オンライン

 

13:00-13:20

総会・開会挨拶

 

13:30-14:00

一般発表

中谷碩岐「中期デリダのカント解釈における信の問題」(司会 平田公威)

 

14:00-17:00

シンポジウム

「地域が人を育て、人が地域を育てる」

- 報告 (1) 長妻三佐雄「東井義雄と但東・豊岡」

- 報告 (2) 岩本真一「保田與重郎と桜井・京都」

- 報告 (3) 植村和秀「折口信夫の大和」

- 総合討議

(司会 長妻三佐雄、荻野雄)

 

■一般発表

中谷碩岐「中期デリダのカント解釈における信の問題」

本発表は20世紀フランスを代表する思想家の一人であるジャック・デリダ(1930-2004)の著作『エコノミメーシス』(1975)について、特にそのカント『判断力批判』読解に関する箇所を扱うものである。具体的には本発表は、『声と現象』(1967)を中心としたデリダの現象学読解と『エコノミメーシス』との議論の連続性に着目することで、デリダのカント解釈をデリダ思想の系譜の中に位置付けるとともに、デリダがカントの中に見出した「信」の主題の内実を明らかにすることを試みる。

『判断力批判』読解、或いは芸術論という『エコノミメーシス』の主題は一見すると前期デリダの現象学研究という主題から独立したものであり、それ故これまでこの著作は現象学を中心とした前期デリダ思想との連続性という観点からはほとんど論じられてこなかった。それに対して本発表は、そうした連続性に注目して『エコノミメーシス』を読解することで、デリダの『判断力批判』解釈の独自性を理解することが可能であると主張する。

『エコノミメーシス』では、『声と現象』で主題的に論じられた意識の自己触発の構造である「私が話すのを聴く」という表現を中心として『判断力批判』の読解が行われる。本発表は『声と現象』を中心に、デリダの現象学に関する議論を補助線としてデリダの『判断力批判』読解の中に現れる「信」という問題系の内実を明らかにすることを試みたい。具体的には本発表は、デリダは『判断力批判』における「記号作用」の中に「信」の問題を見出し、「知」と「信」を区別することによってカント的な意味での批判を反復しているのだが、この彼のカント解釈は現象学解釈と連続的に理解可能であると主張する。こうした本発表の試みは、これまで十分になされてこなかった、現象学解釈とカント解釈を一貫した図式の下で包括的に理解するデリダ解釈の可能性を開くだろう。

 

■シンポジウム要旨

社会芸術学会の設立趣旨に「芸術は、社会のなかで生まれ、育ち、そしてこれに働きかける」とあるが、「地域」も芸術や思想に影響を及ぼすとともに、芸術や思想が「地域」に働きかけることもある。生まれ育った「地域」が思想形成に影響を与え、逆に、そこで形成された思想が「地域」を変えてゆく。また、ある「地域」への想いのなかで生まれた芸術や思想が、今度は地域文化を豊かに彩るようになる。今回は「地域が人を育て、人が地域を育てる」というテーマのもと、とくに近畿圏の「地域」との関係が深い人物を取り上げ、その芸術や思想について検討したい。

 

- 長妻三佐雄「東井義雄と但東・豊岡」

生活綴方教育の実践者としても知られる東井義雄は、戦後、『村を育てる学力』を発表して教育の世界で注目を集めた。高度成長期に差し掛かるころ、地域の産業を振興するためにも、子どもたちの学力を高めようと学校教育のあり方を再検討した。作文教育で東井の活動は注目されたが、その一方で「教育者の転向」として戦時中の言動が批判的に検証される。教育学の分野では東井教育の先行研究は多く存在している。本報告では、当時の政治・社会状況のなかで、東井の教育実践や教育思想がどのように形成され、機能したのかを検討する。

 

- 岩本真一「保田與重郎と桜井・京都」

戦前・戦後に様々な意味において「活躍」した文藝批評家の保田與重郎は、出生の地である奈良、殊に桜井との関わりで論じられることが多い。ただ、確かに奈良は保田の思想形成において決定的な影響を与えてはいるものの、戦前に「時代の寵児」となった時期は東京で生活しており、戦後、文壇に「復活」してからは京都に居を構えている。今回の報告では、保田が戦地より桜井に復員してから京都に移住するまでの約10年間に着目し、奈良と京都という二つの地域を楕円の二定点と捉えることで、環境的・人的関係の双方から「人と地域」というテーマについて考えてみたい。

 

- 植村和秀「折口信夫の大和」

国学者の折口信夫には、大和への深い思いがあった。大阪の折口家に養子に入った祖父が飛鳥の出身であったからである。高潔な祖父への敬意は飛鳥への思慕となり、多感で挫けがちな折口の心を支えていく。その思慕は大和の国への思慕ともなり、古代人にとっての古代を探究する折口の文学や学問の根底を構成するものとなる。本報告は、折口が「第二の故郷」と呼ぶ大和への思いを手がかりに、社会と文学とのつながりを折口がどのように考えていたのかを明らかにしていく。ただし、折口は大学進学以来東京に暮らしており、大和への思いは現実の生活に根ざしたものではない。しかしそれだけに、思いは自由に羽ばたいて、折口の文学とつながるのである。

■2022年度研究大会

日時:2022年7月30日(土)

開催形式:オンライン

12:45-13:00

開会挨拶ならびに総会 澤田美恵子

13:00-16:00

シンポジウム「いかにしてイメージに触れるのか」

デジタルテクノロジーの発達に支えられて、今日では多くの人々が容易に映像を制作・発信するようになり、それらを視聴するという経験もいまや当たり前のように私たちの日常に浸透しているといえます。その一方で、私たちは日々膨大な量の情報に埋もれてしまい、眼前に存在する他者や未知の出来事をアクチュアルに見る能力を著しく低下させているようにも思われます。このシンポジウムでは、光学的な現象に留まらない「イメージ」なるものに思考を向け、こうした現代のメディア環境において、いかにすれば「生き生きとしたイメージを獲得できるのか」という問いをさまざまな角度から考えていきます。

- 報告(1) 荻野雄「映画はなぜ「物理的現実の救済」なのか?/クラカウアーの『映画の理論』について」

- 報告(2) 岡元ひかる「イメージの模倣を超えて/舞踏家・土方巽が目指した「騙されやすい注意力」について」

- 報告(3) 小森はるか「見えないけどここに在る、を映すために」

- パネルディスカッション 荻野雄、岡元ひかる、小森はるか(司会・進行:青山太郎)

一般発表

16:10-16:40

有馬景一郎「フェリックス・ガタリの絵画論における、主観性の生産の意義」

(司会:吉川順子)

16:40-17:10

林宮玉「ジョルジュ・バタイユの文学論/「超過分」としての文学が向かう外部とは何か」

(司会:若林雅哉)

17:10-17:40

杉﨑哲子「筆文字の印象の言語化について」

(司会:檜垣立哉)

 

17:40-17:10 閉会挨拶 澤田美恵子

■2021年度研究大会

日時:2021年7月17日(土)

開催形式:オンライン

10:00-10:10

開会挨拶 伊藤 徹

一般報告

10:15-10:45

「フェリックス・ガタリのエコゾフィーと芸術――ラボルドのアトリエから『ファンタスティック・プラネット』まで」

発表者:香川祐葵(大阪大学)

司会:青山太郎(名古屋文理大学)

10:50-11:20

「バシュラールの風景論――力動的想像力の観点からみたフロコンの版画」

発表者:上野隆弘(大阪大学)

司会:吉川順子(京都工芸繊維大学)

11:25-11:55

「寺山修司・密室劇という試み・《阿片戦争》の場合」

発表者:伊藤徹(京都工芸繊維大学)

司会:若林雅哉(関西大学)

12:00-12:30

総会

 

12:30-13:25

昼休み

 

13:25-13:55

「政治を思考する上でなぜ「芸術」が問題とされうるのか?:ジャン=リュック・ナンシーの文学的共産主義によせて」

発表者:安藤歴(大阪大学)

司会:仁井田 崇(名城大学)

14:00-17:00

シンポジウム「偶然・言語・場所—宮野真生子が遺したもの—」

趣旨:社会芸術学会設立当初からの会員であり2019年7月22日に逝去した哲学者の宮野真生子は、アカデミズムの作法での研究に精力的に取り組みながら、その知的成果がどのように社会に接続されるべきか、いかなる相互フィードバック関係がありうるのかを問い続け、そうした接続の場を設けることに取り組んできた。死後刊行された、人類学者・磯野真穂との共著作『急に具合が悪くなる』にその姿勢は顕著に見られる。いわば、宮野は、学者であると同時に、社会と向き合う表現者でもあろうとしたと言えるだろう。そうした研究/表現活動のなか、宮野の関心は、九鬼周造研究から出発して、偶然性/出逢いと存在の論理、愛・性・家族、言語/詩論、あるいは食・病・生など、実存と表現をめぐるさまざまなテーマに伸び広がっていこうとしていた。今回のシンポジウムでは、狭義の意味での「追悼」ではなく、宮野の書き残したものやその関心を出発点ないし一つの契機として、多様なテーマをめぐって、社会芸術学会という自由な思想空間にふさわしい知的饗宴を実現したい。

提題者(*五十音順):

【論理と偶然】

竹花洋佑(福岡大学)「反復と偶然―九鬼時間論とシーシュポスの倫理」

【出会いと場】

谷口功一(東京都立大学)「夜の場での出会いと関わり—スナックを中心に」

【文学と偶然】

張文薫(国立台湾大学)「文学と偶然:すれ違いと歴史の幽霊」

【実存と性】

細井綾女(リヨン第三大学)「性器を切り取られた女、性器を切り取った女 :女性犯罪・高橋お伝」

司会:奥田太郎(南山大学)、藤田尚志(九州産業大学)

© 社会芸術学会

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