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研究大会

過去に開催された研究大会のプログラムは以下のとおりです。

■2024年度研究大会

日時:2023年7月20日(土)

会場:専修大学 神田キャンパス

12:30-12:50

開会挨拶・総会

12:50-14:50

一般発表

瀧口隆「ジル・ドゥルーズ『シネマ』における自由間接話法の射程」

(司会:⻘山太郎)

上野隆弘「オブジェ学とは何か——ダゴニェにおける芸術と工業」

(司会:池田忍)

細井綾女「『たった一つの、私のものではない言葉』:在日朝鮮文学の定義を問う」

(司会:小川歩人)

15:00-17:30

シンポジウム「言語と社会」

報告 (1) 平田公威「音から歌声へ、文から文体へ——ドゥルーズ゠ガタリのマイナー言語論を手がかりにした考察」

報告 (2) 酒井麻依子「経験を言葉にもたらすこと—— 言語の権力」

報告 (3) 深澤明利「私を作る記憶、記憶を作る私—— ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』を読む」

(司会:檜垣立哉)

■一般発表

瀧⼝隆「ジル・ドゥルーズ『シネマ』における⾃由間接話法の射程」

本発表は、ジル・ドゥルーズ(1925−1995)の著作『シネマ1 *運動イメージ』
(1983)、『シネマ2 *時間イメージ』(1985)における「⾃由間接話法 indirect libre
discours」ないし「⾃由間接的な indirecte libre」という語の使⽤に着⽬し、それらをめぐる議論を『シネマ』で問われる問題系のなかに位置づけることを試みるものである。『シネマ』においてドゥルーズは⾔語学的な狭義の意味を超えてこの語を⽤いる。そして「⾃由間接話法」をめぐる議論の基底にあるのは、ドゥルーズの記憶と⺠衆について論じる政治映画論である。
この政治映画論では、いかにして同⼀的かつ⽀配的な語り⼿によるプロパガンダに抗して
「集団的⾔表」を⽴ち上げるのかが問われる。同⼀的かつ⽀配的な主体への批判は、『シネ
マ1』においても「⾃由間接話法」をめぐる記述に⾒られる。ドゥルーズは、同⼀中⼼的な
主体と「主観−客観」の関係を前提とする「⾃然的知覚」を批判し、ベルクソンに依拠した
知覚の発⽣の議論を展開する。そのなかで「主観−客観」の関係を⾔語との類⽐において問
い直す⽂脈で、⾔語学者バフチンと映画作家パゾリーニに由来する「⾃由間接話法」が紹介
される。この語は、「⾏為する者を⾒る者」といった⼆重の主体化が折り込まれる映画的な
イメージの在り⽅を⽰す。
「時間イメージ」を主題とする『シネマ2』において「⾃由間接話法」は、映画における
物語の語り⼿と⾔表の形成の議論に援⽤される。すなわちそこでは、映画はいかに記憶を仮
構するのかが問われるのであり、「⾃由間接話法」における⼆重の主体化に焦点が当たる。
したがって「⾃由間接話法」に関するドゥルーズの記述を追うことで、知覚の裏側で通底す
る記憶の問題、ドゥルーズが映画を通して議論する集合的記憶の問題が浮かび上がることに
なるだろう。本発表はこの問題関⼼のもとで、『シネマ1』から『シネマ2』にかけて「⾃
由間接話法」の議論を整理しその理路を明らかにする。

上野隆弘「オブジェ学とは何か——ダゴニェにおける芸術と⼯業」
フランス科学認識論の系譜に連なるフランソワ・ダゴニェ(1924-2015)は、この分野の代
表者であるガストン・バシュラール(1884-1962)と同じく芸術にも多⼤な関⼼を寄せたことで知られている。バシュラールが主に詩に関する著作を残したのに対してダゴニェの関⼼は造形芸術に向けられ、特に現代アートを主題として哲学的考察をおこなっている。
本発表では、ダゴニェの著作のうち『今⽇の芸術のために––芸術のオブジェからオブジェの芸術へ』(1992)および『神々は台所にいる––オブジェの哲学と哲学のオブジェ』
(1996)という⼆冊を中⼼に取り上げることでダゴニェの芸術論を明らかにしたい。
ダゴニェは、これらの著作で芸術と⼯業の関係を主題としている。思想史的には対⽴したも
のとして扱われてきた芸術と⼯業は、ダゴニェにおいて近づけられ、同列に扱われる。その
際、鍵概念として⽤いられるのが「オブジェ学(objectologie)」である。
オブジェ学は、精神性に対して物質性を再評価しようとするダゴニェの「物質学(matériologie)」から導き出されるものであり、⼈⼯物を再考するために⽤いられる概念である。ダゴニェは、『オブジェ礼賛』(1989)によってはじめて提起されたこの概念を⽤いることで、⼿⼯芸品を評価するという古典的な判断に対して⼤量⽣産された⼯業製品を積極的に評価しようとする。その背景には、⼯業製品をイデアの模倣として貶めるプラトンへの批判がある。
先⾏研究では、⽇本にダゴニェを紹介した⾦森修がこのオブジェ学について簡潔に⾔及し
ている(⾦森、2008)。しかし、その内実、特にオブジェ学がもたらす社会的含意までは考察されていない。本発表では、ダゴニェの思想史的意図を押さえつつも、そこから導き出される社会観とその現代的意義を明らかにする。

細井綾⼥「『たった⼀つの、私のものではない⾔葉』:在⽇朝鮮⽂学の定義を問う」
在⽇朝鮮⼈コミュニティには⽇本を出⾃としない彼らを差別・区別することなく⽇本社
会の正当な構成員として認めることを求める動きがある⼀⽅で、「在⽇」というラベリング
を外すことで彼らを彼らたらしめている歴史性が消し去られてしまうことを危惧する者もい
る。⽂学の分野では彼らによって書かれた作品は常に「在⽇朝鮮⼈⽂学」というラベリング
により、あたかもそれらが⾮-正統的な⽇本⽂学、あるいは⽇本⽂学の中の特殊分野であるかのように位置付けられてきた。この差異化はある時は出版社や書店、図書館を含む⽂学界において、またある時は作家⾃⾝によりなされてきた。そしてこの⽂学の定義は未だに曖昧なままである。このジャンルに字義通りの定義を与えれば「在⽇朝鮮⼈、すなわち⽇本に在する朝鮮半島出⾃の⼈々によって書かれた作品」ということになる。実際にはこのジャンルを⾔い表すのに「⽇本語⽂学」「⺠族⽂学」「僑胞⽂学」「ディアスポラ⽂学」「マイナー⽂学」「植⺠地⽂学」「ポストコロニアル⽂学」といった様々なタームが⽤いられ、それらのタームがカバーする領域は互いに重なり合ったり、排除しあったりしている。どの国で、どの分野でこの⽂学が論じられるかによっても⽤いられるタームは変わる。またこの⽂学の扱いがポストコロニアル・スタディーズのような研究分野におけるある種の流⾏に影響され、変化するという現象もある。この⽂学の定義を困難にしている原因の⼀つであり、同時にその核を成してもいるのが「ことば」、彼らの⽤いる「⽇本語」である。在⽇朝鮮⼈の表現⾔語としての⽇本語は、それが作家の⺟語であるか否かに関わらず⽇本⽂学の他の作家らの⽤いる⽇本語とは異なる歴史性を内包している。それはリービ秀雄や楊逸をはじめとする⽇本出⾃ではない作家たちの⽇本語とも異なる⽇本語である。ここでは⾃らの⽇本語との関係を「⾔葉の呪縛」(⾦⽯範)、「⾔葉の杖」(李良枝)と⾔い表す在⽇朝鮮⼈作家たちの特異な⾔語 経験を、ジャック・デリダが Le monolinguisme de l’autre(Derrida : 1996)において⽰したマグレブ系フランス⼈の⾔語経験との⽐較を通して論じ、そこから在⽇朝鮮⼈⽂学を定義することは可能なのかという問いに対する⼀つの答えを提案したいと思う。

■シンポジウム要旨

社会芸術学会の設立趣旨に「芸術は、社会のなかで生まれ、育ち、そしてこれに働きかける」とあるが、「地域」も芸術や思想に影響を及ぼすとともに、芸術や思想が「地域」に働きかけることもある。生まれ育った「地域」が思想形成に影響を与え、逆に、そこで形成された思想が「地域」を変えてゆく。また、ある「地域」への想いのなかで生まれた芸術や思想が、今度は地域文化を豊かに彩るようになる。今回は「地域が人を育て、人が地域を育てる」というテーマのもと、とくに近畿圏の「地域」との関係が深い人物を取り上げ、その芸術や思想について検討したい。

- 平田公威「音から歌声へ、文から文体へ——ドゥルーズ゠ガタリのマイナー言語論を手がか りにした考察」
しばしば、⾔語とは意味を表すものであり、情報を伝達する道具だと考えられてきた。こ
の、アンドレ・マルティネの機能主義に代表される⾒⽅に対して、⾔語⾏為論や社会⾔語学
は⾔語活動を根本からみなおすものであった。フランスの哲学者、思想家のジル・ドゥルー
ズとフェリックス・ガタリは、この⼆つの流れを整理するなかで、興味深いことに、後者の
観点に⽴てば、⾔語は、⽂学や⾳楽としてみえてくると論じている。
本報告では、ドゥルーズ゠ガタリの『千のプラトー』を⼿引きに、⾔語なるものをあらた
めて検討し、その歌声や⽂体への⽣成変化について考察する。

- 酒井麻依子「経験を言葉にもたらすこと——言語の権力」

⾔語は、個⼈の経験を社会の中の他者たちに伝えるものであると同時に、私たちの経験を
分節化するものであり、個⼈の経験のされ⽅⾃体がその社会の⾔語に左右されてもいる。
だが、⼈々が⽤いる⾔語そのものは中⽴的ではない。⾔語は、どのような語り⽅をすべき
か、どのような経験が語られることができ、聞き取られるに値するかを⽀配することによっ
て、ある⼈々を「妥当な」語り⼿として中⼼に据えつつ、他の⼈々を周縁に置く。このこと
は、特定の⼈々の経験をとるに⾜らず、存在しないものとなすだろう。
本報告は、批判的現象学、フェミニズム認識論、ポストコロニアル理論などを参照しつ
つ、⾔語という権⼒と経験の記述との関係について論じる。

- 深澤明利「私を作る記憶、記憶を作る私——ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ、語れ』を読む」

亡命作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)の自伝 Speak, Memory (初版 1951 年; 邦訳題『記憶よ、語れ』)は、ナボコフがアメリカへ亡命する以前の、ロシアおよびヨーロ ッパにおいて主としてロシア語を用いていた時期の出来事が英語によって書かれている。一般的に自伝においては視点となる人物を指示する人称代名詞——たとえば、「私」"I"——の 記号上の同一性が確固たる不変の自己を表出しているかに見えるが、実際には語の意味はそれが用いられる文脈において規定される。また、語られる過去の「私」を現在の「私」は、 読解可能である(と作者には思われる)形で書かざるをえないから、多かれ少なかれ読者を 意識する仕儀に至る。換言すれば、同時代の社会的コンテクストを参照しつつ自伝テクスト は書かれている。たとえば、『記憶よ、語れ』において、当時のアメリカの読者の偏見や先 入観に応答するように書かれている箇所は、そのわかりやすい事例であるだろう。本発表で は、本作において表象される「私」が同時代のアメリカにおいてどのような社会的な布置に おさまるのかを考察することを通じて、「生の最中で立ち上がる言語」の一端に迫ることを 目標としたい。

■2023年度研究大会

日時:2023年7月15日(土)

開催形式:オンライン

 

13:00-13:20

総会・開会挨拶

 

13:30-14:00

一般発表

中谷碩岐「中期デリダのカント解釈における信の問題」(司会 平田公威)

 

14:00-17:00

シンポジウム

「地域が人を育て、人が地域を育てる」

- 報告 (1) 長妻三佐雄「東井義雄と但東・豊岡」

- 報告 (2) 岩本真一「保田與重郎と桜井・京都」

- 報告 (3) 植村和秀「折口信夫の大和」

- 総合討議

(司会 長妻三佐雄、荻野雄)

 

■一般発表

中谷碩岐「中期デリダのカント解釈における信の問題」

本発表は20世紀フランスを代表する思想家の一人であるジャック・デリダ(1930-2004)の著作『エコノミメーシス』(1975)について、特にそのカント『判断力批判』読解に関する箇所を扱うものである。具体的には本発表は、『声と現象』(1967)を中心としたデリダの現象学読解と『エコノミメーシス』との議論の連続性に着目することで、デリダのカント解釈をデリダ思想の系譜の中に位置付けるとともに、デリダがカントの中に見出した「信」の主題の内実を明らかにすることを試みる。

『判断力批判』読解、或いは芸術論という『エコノミメーシス』の主題は一見すると前期デリダの現象学研究という主題から独立したものであり、それ故これまでこの著作は現象学を中心とした前期デリダ思想との連続性という観点からはほとんど論じられてこなかった。それに対して本発表は、そうした連続性に注目して『エコノミメーシス』を読解することで、デリダの『判断力批判』解釈の独自性を理解することが可能であると主張する。

『エコノミメーシス』では、『声と現象』で主題的に論じられた意識の自己触発の構造である「私が話すのを聴く」という表現を中心として『判断力批判』の読解が行われる。本発表は『声と現象』を中心に、デリダの現象学に関する議論を補助線としてデリダの『判断力批判』読解の中に現れる「信」という問題系の内実を明らかにすることを試みたい。具体的には本発表は、デリダは『判断力批判』における「記号作用」の中に「信」の問題を見出し、「知」と「信」を区別することによってカント的な意味での批判を反復しているのだが、この彼のカント解釈は現象学解釈と連続的に理解可能であると主張する。こうした本発表の試みは、これまで十分になされてこなかった、現象学解釈とカント解釈を一貫した図式の下で包括的に理解するデリダ解釈の可能性を開くだろう。

 

■シンポジウム要旨

社会芸術学会の設立趣旨に「芸術は、社会のなかで生まれ、育ち、そしてこれに働きかける」とあるが、「地域」も芸術や思想に影響を及ぼすとともに、芸術や思想が「地域」に働きかけることもある。生まれ育った「地域」が思想形成に影響を与え、逆に、そこで形成された思想が「地域」を変えてゆく。また、ある「地域」への想いのなかで生まれた芸術や思想が、今度は地域文化を豊かに彩るようになる。今回は「地域が人を育て、人が地域を育てる」というテーマのもと、とくに近畿圏の「地域」との関係が深い人物を取り上げ、その芸術や思想について検討したい。

 

- 長妻三佐雄「東井義雄と但東・豊岡」

生活綴方教育の実践者としても知られる東井義雄は、戦後、『村を育てる学力』を発表して教育の世界で注目を集めた。高度成長期に差し掛かるころ、地域の産業を振興するためにも、子どもたちの学力を高めようと学校教育のあり方を再検討した。作文教育で東井の活動は注目されたが、その一方で「教育者の転向」として戦時中の言動が批判的に検証される。教育学の分野では東井教育の先行研究は多く存在している。本報告では、当時の政治・社会状況のなかで、東井の教育実践や教育思想がどのように形成され、機能したのかを検討する。

 

- 岩本真一「保田與重郎と桜井・京都」

戦前・戦後に様々な意味において「活躍」した文藝批評家の保田與重郎は、出生の地である奈良、殊に桜井との関わりで論じられることが多い。ただ、確かに奈良は保田の思想形成において決定的な影響を与えてはいるものの、戦前に「時代の寵児」となった時期は東京で生活しており、戦後、文壇に「復活」してからは京都に居を構えている。今回の報告では、保田が戦地より桜井に復員してから京都に移住するまでの約10年間に着目し、奈良と京都という二つの地域を楕円の二定点と捉えることで、環境的・人的関係の双方から「人と地域」というテーマについて考えてみたい。

 

- 植村和秀「折口信夫の大和」

国学者の折口信夫には、大和への深い思いがあった。大阪の折口家に養子に入った祖父が飛鳥の出身であったからである。高潔な祖父への敬意は飛鳥への思慕となり、多感で挫けがちな折口の心を支えていく。その思慕は大和の国への思慕ともなり、古代人にとっての古代を探究する折口の文学や学問の根底を構成するものとなる。本報告は、折口が「第二の故郷」と呼ぶ大和への思いを手がかりに、社会と文学とのつながりを折口がどのように考えていたのかを明らかにしていく。ただし、折口は大学進学以来東京に暮らしており、大和への思いは現実の生活に根ざしたものではない。しかしそれだけに、思いは自由に羽ばたいて、折口の文学とつながるのである。

■2022年度研究大会

日時:2022年7月30日(土)

開催形式:オンライン

12:45-13:00

開会挨拶ならびに総会 澤田美恵子

13:00-16:00

シンポジウム「いかにしてイメージに触れるのか」

デジタルテクノロジーの発達に支えられて、今日では多くの人々が容易に映像を制作・発信するようになり、それらを視聴するという経験もいまや当たり前のように私たちの日常に浸透しているといえます。その一方で、私たちは日々膨大な量の情報に埋もれてしまい、眼前に存在する他者や未知の出来事をアクチュアルに見る能力を著しく低下させているようにも思われます。このシンポジウムでは、光学的な現象に留まらない「イメージ」なるものに思考を向け、こうした現代のメディア環境において、いかにすれば「生き生きとしたイメージを獲得できるのか」という問いをさまざまな角度から考えていきます。

- 報告(1) 荻野雄「映画はなぜ「物理的現実の救済」なのか?/クラカウアーの『映画の理論』について」

- 報告(2) 岡元ひかる「イメージの模倣を超えて/舞踏家・土方巽が目指した「騙されやすい注意力」について」

- 報告(3) 小森はるか「見えないけどここに在る、を映すために」

- パネルディスカッション 荻野雄、岡元ひかる、小森はるか(司会・進行:青山太郎)

一般発表

16:10-16:40

有馬景一郎「フェリックス・ガタリの絵画論における、主観性の生産の意義」

(司会:吉川順子)

16:40-17:10

林宮玉「ジョルジュ・バタイユの文学論/「超過分」としての文学が向かう外部とは何か」

(司会:若林雅哉)

17:10-17:40

杉﨑哲子「筆文字の印象の言語化について」

(司会:檜垣立哉)

 

17:40-17:10 閉会挨拶 澤田美恵子

■2021年度研究大会

日時:2021年7月17日(土)

開催形式:オンライン

10:00-10:10

開会挨拶 伊藤 徹

一般報告

10:15-10:45

「フェリックス・ガタリのエコゾフィーと芸術――ラボルドのアトリエから『ファンタスティック・プラネット』まで」

発表者:香川祐葵(大阪大学)

司会:青山太郎(名古屋文理大学)

10:50-11:20

「バシュラールの風景論――力動的想像力の観点からみたフロコンの版画」

発表者:上野隆弘(大阪大学)

司会:吉川順子(京都工芸繊維大学)

11:25-11:55

「寺山修司・密室劇という試み・《阿片戦争》の場合」

発表者:伊藤徹(京都工芸繊維大学)

司会:若林雅哉(関西大学)

12:00-12:30

総会

 

12:30-13:25

昼休み

 

13:25-13:55

「政治を思考する上でなぜ「芸術」が問題とされうるのか?:ジャン=リュック・ナンシーの文学的共産主義によせて」

発表者:安藤歴(大阪大学)

司会:仁井田 崇(名城大学)

14:00-17:00

シンポジウム「偶然・言語・場所—宮野真生子が遺したもの—」

趣旨:社会芸術学会設立当初からの会員であり2019年7月22日に逝去した哲学者の宮野真生子は、アカデミズムの作法での研究に精力的に取り組みながら、その知的成果がどのように社会に接続されるべきか、いかなる相互フィードバック関係がありうるのかを問い続け、そうした接続の場を設けることに取り組んできた。死後刊行された、人類学者・磯野真穂との共著作『急に具合が悪くなる』にその姿勢は顕著に見られる。いわば、宮野は、学者であると同時に、社会と向き合う表現者でもあろうとしたと言えるだろう。そうした研究/表現活動のなか、宮野の関心は、九鬼周造研究から出発して、偶然性/出逢いと存在の論理、愛・性・家族、言語/詩論、あるいは食・病・生など、実存と表現をめぐるさまざまなテーマに伸び広がっていこうとしていた。今回のシンポジウムでは、狭義の意味での「追悼」ではなく、宮野の書き残したものやその関心を出発点ないし一つの契機として、多様なテーマをめぐって、社会芸術学会という自由な思想空間にふさわしい知的饗宴を実現したい。

提題者(*五十音順):

【論理と偶然】

竹花洋佑(福岡大学)「反復と偶然―九鬼時間論とシーシュポスの倫理」

【出会いと場】

谷口功一(東京都立大学)「夜の場での出会いと関わり—スナックを中心に」

【文学と偶然】

張文薫(国立台湾大学)「文学と偶然:すれ違いと歴史の幽霊」

【実存と性】

細井綾女(リヨン第三大学)「性器を切り取られた女、性器を切り取った女 :女性犯罪・高橋お伝」

司会:奥田太郎(南山大学)、藤田尚志(九州産業大学)

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